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この本については4月12日発売の「ミステリーズ!」に書評を書いています。同じことを書くのも無駄なので、あちらでは字数の関係で書けなかったことを補足的に書いてみます。 未読の方のためにストーリーをダイジェストしておくと、まずオーストラリアに住むサムという女の子が出てくる。これはサマンサの愛称なんだけど、女なのにサムなんて変だな、と思いますよね。じつは、この略称がすでに罠のひとつなんですよ。ヒルおじさん、さすがに百戦錬磨の手練れです。 で、このサムがおとなになって数学者としてイギリスに留学することになる。サムの祖母は孤児で、少女の頃、母国からオーストラリアに強制移民されてきた人です。オーストラリアに着いてまもなく妊娠していることが発覚し、サムの父を産んで亡くなります。サムの父は養父母に育てられるが、自分の母の出自や自分の父親が誰かについて、悶々とした思いを抱いていた。そこで娘のサムは祖母の母国に留学するチャンスを活かして、祖母の故郷を訪ね、彼女を孕ませた「幻の祖父」を探す…というのが、物語のひとつの柱になります。 もうひとつの柱は、ミゲルというスペインからイギリスにやってきた若者の話。こちらは歴史学専攻で、いっときはカソリックの聖職者をめざしたほど敬虔な青年です。そのわりには、きれいな女の子を見るとすぐ性欲が疼いて、妄想を逞しくしたりしてるんですが。神秘的体験があって、もの静かな学究タイプ。彼はイギリスでのカトリックの歴史を研究するかたわら、400年前にこの地に流れ着いた祖先のひとりの足跡を調べています。その場所というのが偶然、サムの祖母がかつて住んでいたのと同じ村だった。 そんなわけで、二人の若い男女がたまたま同時期にこの村に逗留することになり、二人の投宿したのが、村に一軒しかない宿屋「異人館」であった…というわけです。 物語はそれぞれの祖先の足跡探しと、二人のロマンスを絡ませながら進み、最後の最後であっと驚く結末に辿り着きます。 この小説はたぶん「おもしれぇー!」と思う人と、「なんだかなぁ、もうひとつだよな」という人にハッキリ分かれると思いますね。その意味では、年末ベストテンの評価が楽しみな一作。 私はもちろん「おもしれぇー」の口です。 というのも、この物語は全体のスキームがバーバラ・ヴァインの『アスタの日記』に似ています。ヴァインは、ごぞんじのように、ルース・レンデルの別名義ですね。当ブログの初めでご紹介したように、『アスタ』は私にとって、個人的なベストミステリー5冊に入れているほどの愛読書。この愛読書に似ているというだけで、もう好印象は確定でした。 しかし、このお話のおもしろさは、西洋史に興味があるかどうかにもよるでしょう。歴史ものの読みどころのひとつは、大きな歴史の流れと登場人物の個人的境遇がどう劇的に絡むか、というところにあります。ルーツ探し小説だと、歴史のうねりとルーツになる人物の個人史、プラス、現代パートでの主人公を取り巻く状況、ということになります。 この物語は40年前の孤児強制移民と、400年前のイギリスとスペインの戦争が背景になっていて、さらにどちらもカトリックと新教徒の対立が底流にある。このあたりのことに興味があるのとないのとでは、興趣の度合いがかなり違ってしまいます。私はさいわい、昔から西洋史が好きで、高校の世界史でも試験範囲が西洋史だと高得点でした(えへん!)。でもってキリスト教の歴史にも関心がある。だからおもしろく読めた、という点は否定できません。 ヒルはさすがにベテランだけあって、この3つの要素の組み合わせ方がうまい。説明が説明くさくなっていないから、ストーリーに乗せられて、一気に読まされてしまいました。 ただし「もうひとつだよな」と思う読者もいるだろう、というのは、お話の展開にやや偶然を使いすぎているからです。とても上手に偶然を使っているところもある反面、ちょっとこれは…というところも、なきにしもあらず。特にラストは、あざといと言えばあざとい。私は一瞬唖然としたあと、大笑いしましたけど、人によっては「やりすぎ」と思うでしょうね。 それと『アスタ』や『サルバドールの復活』と同じように、この物語は「血」の問題がテーマになっている。ルーツを探すとか血脈の維持とかに強い関心を持つのは、古い伝統のある国ならどこも同じでしょう。イギリスのように貴族が現存し、階級制度が残っている国ならなおさらです。むしろ日本のほうが大衆社会化は進んでいるようにも思えます。横溝正史の世界ならともかく、現代日本を舞台に「血」のドラマを書いても、共感を得られるのかどうか…。 現代アメリカでも、こういう小説は成り立ちにくいでしょうね。アメリカはピューリタンが建国精神の根幹を担っていますから、血縁とか伝統ではなく、ピューリタン的なpublic精神が社会の絆となってきました。マックス・ウェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で分析したような、神の恩寵を証明するために客観的確証、つまり世俗世界における禁欲と勤勉を自分に課すわけです。 したがって、ピューリタンの信徒組織はカソリックのそれとは性格が違います。カソリックが地縁、血縁、伝統社会といったものと融合しているのに対して、ピューリタンは個人の自由意志でセクトを選ぶ。ここからピューリタン特有の「公」の精神が生まれる。アメリカ精神が個人主義的でありながら共同体を組織するのに長けているのはこのためです。アメリカ人が寄付やボランティアを自然に出来るのに、日本人はそれが出来にくい、というのは、こういう文化の違いにある。 …それはともかく、そういうアメリカ社会では「血」は日本やイギリスに比べると、あまり大きな問題にはならない。イギリスの国教会というのは一応プロテスタントですが、儀式などもカソリックによく似ているし、やはりアメリカのピューリタンとは違っています。だいいち王室と結びついていますしね。 こういう文化的バックグラウンドを考えながら読むと、「血」にアイデンティティを求めるイギリス人の内面がうかがえて、いっそう興味が深まろうというものです。 |
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