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大した冊数も書いていないのにナマイキですが、小説が本として完成するまでのお話をしてみます。今回は校閲と著者校正の話。 もちろんこの段階まで進めば、本の完成はもう間近。ところが、ここに最後の難関と言うべきものがある。それが校閲と著者校正です。アイデアを創って、構想を立て、取材をし、資料を読み、原稿を書き、編集者のチェックが入り、決定稿が仕上がり…と進むプロセスのうち、編集者のチェックに続いて、この作業があるんですな。 場合によると、編集者が両方を兼ねていることもある。けれど、ちゃんとした本作りをする出版社では、だいたい専門の校閲者を使うようです。 編集者のチェックは構成とか文章表現の適否など、小説としての完成度が中心になりますが、校閲者の仕事は、もっと細かく言葉の使い方が正しいかどうか、書かれている事実に誤認がないか、そういったことが中心です。 出版社がきちんとした校閲者を使っているかどうかを簡単に見分けるのは、誤字脱字があるかどうかでわかります。明らかな間違いが3つ以上目に付くようなら、その会社は校閲に手を抜いていると見て間違いない。まあ、ふつうは、はっきりした誤用や脱落はひとつもないのが当然です。そのくらいプロの校閲者の眼はきびしい。 ただし、最終的な決定権は著作権者である作家にありますから、いくら校閲者がチェックを入れてきても、作家が訂正を拒否することがあります。たとえば「あたたかい」という言葉を漢字で書くと「暖かい」と「温かい」がある。どちらも元の意味は「冷たくなくて快い」ですが、一般には気温や衣服などについては「暖」を、人の心については「温」を使います。暖房、暖気、温情、みたいに使い分けていますね。もっとも温度、温泉のように「温」は物理的なあたたかさにも使える。 さて、ある作家はたまたま「暖」という字が好きで、「温」がきらいだとする。これは好き嫌いだからしようがありません。そこで原稿に「暖かい心」と書いておいたら、校閲係が「ここは、温かい心では?」とチェックを入れてきた。これを受け入れて「温」を使うか、自分の好みでそのまま「暖」を使うかは、作家の自由です。だから、こういう場合は「あー、漢字の使い方を間違えてるぞ。いいかげんな校閲だなあ」などとは言えないわけですね。 ちなみに私の場合は「かたい」にコダワリがあって、なぜか「堅い」が好きで「固い」と「硬い」が好きではないんですよ。なぜだか、わかりません。…人間が「堅い」からでしょうかね。いえ、冗談ですけど。すみません。 作者としてみると、誤字脱字を指摘されるのはこれは仕方がない。素直に直します。しかし語法や文法となると、明らかな間違いはともかく、必ずしも直すとは限りません。小説の文章はいつも正しい文章である必要はない。リズムや効果を考えて、あえて正当な語法文法から逸脱した書き方をすることもあるからです。 まずこれは直さない、というのは、文章そのものにチェックが入ったとき。これも一般的にはこうは書かない、という観点から、疑問符がつけられるのですが、これは正直言って、いささかムッとします。どんどん書き流したようなところだと、指摘通りに直すこともありますが、自分なりに納得して書いた文章だと、カチンと来る。 そういうときは、赤のボールペンで、校閲者の書き込みにでっかいバツ印をつけます。これが「却下」のサインです。 それから、たとえば歴史的事実について、疑問を呈されることもある。前作の『剣と薔薇の夏』は歴史ものでしたから、細かいチェックがけっこう付きました。なかには、この人、よくこんなことまで調べたなあと感心するような場合もあります。 一例を挙げると、この作品では、作中で何カ所か旧約聖書を引用したんですね。ところが私は口語訳の聖書がきらいなもので、文語文のものを使った。それも、何冊か読み比べて、昭和40年ごろ、筑摩書房の世界古典文学全集に収録された版が良いと思って、これを採用しました。けれど、訳文が古典的すぎる部分は、一部ほかの版の文を織り込むことにした。つまり、あの作品に登場する旧約聖書の訳文は筑摩版とは少し違っていたわけです。 そうしたら、校閲者はちゃんと古い筑摩版を探してきて、一字一句、正確に引用してあるかどうか調べたんですね。私がほかの版を一部分採り入れたところについて、原文と違うとチェックが入った。これにはおどろいた。あんな古い本がそこらにあるとは思えないから、大きな図書館にでも行って調べたのでしょうか。 あと、こんなトラブルもありました。リンカーンのライバルだった政治家でスティーブン・ダグラスという人がいます。スティーブンは英語ではStephenと書きますね。でもこれ、つづり通りに読むと「ステフェン」あるいは「ステフィン」じゃないですか。もちろん、私もこれでスティーブンと読むということは知っていました。スティーブン・キングもいることだしね。 ところがアメリカ史の泰斗、中屋健一・東大教授の『新・米国史』によると、これが「ステフェン・ダグラス」とはっきり書かれています。まさか東大のアメリカ史の先生が、Stephenと書いてスティーブンと読むことを知らないはずがない。現に同じ本に、ほかの「スティーブン」という名前の人物は何人も登場している。 してみると、このダグラスについては、ステフェンが正しい読み方だったに違いない。そう確信して、私は「ステフェン・ダグラス」と記しました。 そうしたら案の定、校閲で「スティーブン」と訂正されている。こちらにしてみると、「へへーん、そう思うだろ。ところがどっこい、そうじゃないんだよ。このStephenに限ってはステフェンが正しいんだよ」ともう自信満々。当然、でっかいバツ印をつけて返してやりました。もしもう一度チェックを入れてきたら、中屋教授の著書を典拠に示して、断固撃退してやる…くらいの意気込みでしたね。 ところがです、私はあっさり次の著者校正で「スティーブン」に訂正しちゃったんですな。なぜか。編集担当の戸川さんが、こうおっしゃるんです。 「このStephenをステフェンと読むのは、駆け出しの翻訳家がときどき間違ってやってしまうことがあるんですよ。ですから、多くの読者はこれを間違いだと思うんじゃないでしょうか。ここはぜひスティーブンに直させてください」 なるほどー、と思いました。学問的な専門書なら註をつけて典拠を示してもいいけれど、小説でそこまでやるほどのことじゃない。ちょっと名前が出てくるだけの人物で、ストーリーにはまったく絡みませんしね。まして東京創元社は長年、翻訳出版を主力としてきた会社。多くの読者に「こんなミスしてるな」と誤解されるような表記は避けたい、と言われるのは無理はありません。 それに、ほかのアメリカ史の本には「スティーブン・ダグラス」と書いているものもある。ということで、一件落着して『剣と薔薇の夏』ではスティーブンに統一することになった。 そういう経緯もあったうえに、『剣と薔薇の夏』は、たしかゲラ校正を三校まで取りました。つまり校閲と著者校正が三回繰り返されたわけです。ここでは書きませんでしたが、「そこまでやるか」というような例はまだまだあるんですよ。…まあとにかく、そのくらい著者校正はたいへんなんです。しかし、いろいろ事情がわかってみると、東京創元社の校閲はどうも業界でもきびしいので有名らしいんですね。 そうだろうなあ。…そういえば、東京創元社の単行本、文庫を読んでいて誤字脱字を見つけた記憶って、私の経験ではたしかなかったと思います。 でも、校閲がしっかりしているってことは、原稿の段階でいい加減に書いておいても、直してもらえるってことだよね。うーん、これって、けっこうラクできるかも。もともとが怠け者のせいか、つい発想がそっちへ行っちゃうのが困りものですねー。 しっかり者の女房がいると、だんだんダンナがだらしなくなる心理と同じでしょうか。 |
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