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ようやく読み終わりました。今年度の推理作家協会賞作品、桜庭一樹さんの『赤朽葉家の伝説』…。読後直後の感想をひと言でいうと、「これほどとは思わなかった!」すでに評価も定まりつつある作者をこんなふうに言っては失礼ですが、「この人は本物」。 読み始めてじきに思ったのは、これは少女板の『大番』を書こうとしているのかな、ということでした。『大番』というのは獅子文六が昭和31年から週刊誌に連載した、当時の話題作。株屋の小僧からのし上がっていく男の人生と、金融恐慌から高度成長直前までの昭和史をからめて描いた傑作です。 一方、『赤朽葉…』は祖母から孫娘まで三代の女の人生を書きながら、1953年、昭和28年から平成の現在までの世相をスケッチしている。まさに女版の『大番』です。しかし違っているのは、『大番』が基本的にリアリズムに貫かれていたのに対して、『赤朽葉…』はリアリズムを縦糸としつつファンタジー的、民話的な世界観が横糸を成して、独自の虚構世界が描かれていることです。その意味で、この小説はあえて歴史小説の文法を採用してはいません。あくまでも女三代の物語がメインであって、桜庭版の昭和「物語」になっています。 ですから「実際のあの時代はこんなふうではなかった」というような異議は、初めから意味がありません。また「このくらいの事実離れなら許容できる」「いや、できない」というような、リアリズムを尺度とした評価も意味を成さない。京極堂が活躍する昭和20年代を、現実の昭和20年代と比べてみても、京極さんの作品の批評にならないのと同じことです。 要は作者が、魅力的な物語世界を築き上げているか否かであって、桜庭さんはみごとにそれを成し遂げている。 ファンタジー的、民話的な要素は至るところで、巧みに、そして自然に物語に溶け込んでいます。たとえば冒頭の「山の民」の話。これは通底音のように物語の全体を統御していて、移り変わるこの世に対する、古代から続く、変わらぬ世界の存在を暗示している。これがあるから物語の奥行きが深まっています。 つまり描かれているのは数十年の話だけれど、千年二千年の時の流れがつねに意識されているのですね。それが時代を書きつつも時代を超越的に相対化している。柔らかく暖かい文体なのに、人の営みに対する、そこはかとない哀しみが全体に滲み出ているのは、こうした相対化する作者の視線の故だと思います。 そのほか、迷子になってしまうくらい広い大屋敷と、幻想的なだんだんの世界。花嫁籠をバラバラにしてしまうほどの大風に、燃えるような赤朽葉。ヒロインの千里眼、不可視の異母妹、と魅力的な要素が「物語的世界」を緻密に編み上げている。 そのどれもが、その場限りの思いつきで書かれるのではなく、重層的に物語をささえています。たとえば、万葉が嫁入りするとき吹いた大風は、その後の展開のなかで何度も現れますね。これが万葉の夫の事故死にも繋がっていくのですが、民話的な「花嫁籠を吹き壊した大風」というイメージが、現実にあった強風による事故をどこかファンタジックに感じさせる。このあたり、こしらえて書いているのだとすれば、たいしたテクニックだなと思うし、意識せずにできているなら才能と言うしかありません。 じつは第二部まで読み終わって、「これがどんなふうにミステリーになっていくんだろう」と不思議に思いました。すでに推理作家協会賞の受賞を聞いていたので、どこかでミステリーになるはずだ、と思っていたからです。そこで第三部を読み出したとき、正直なところ、「あ。これはマズイんじゃないの?」と思いました。 ミステリーの定石からいけば、この物語をミステリーとして書くのなら、謎はストーリー全体から浮かび上がるように、ストーリーの進行に連れてそれが深まり、展開するように書くのが好ましい。この本の書き方では、最終部になってから、ミステリー的部分を取って付けたような形になってしまうんじゃないか。それくらいなら無理にミステリー仕立てにしなくてもよかったのに…という危惧を抱いたのです。 実際、ミステリー的な要素は薄いと言っていいでしょう。しかし、第三部の現代編をよく読むと、たんなる謎追いと謎解きのパートに終わってはいません。謎を追いながら、主人公は第一部と第二部で起こった赤朽葉家とそれにまつわる人々の事件を、ていねいになぞってゆきます。それが現代パートの世相、人間関係の描出とバランス良く織りなされている。 現代に近づくほど、作品中のファンタジー的要素はどうしても薄らいでいきます。へたに扱うと現代パートだけが水と油のように分離してしまい、物語の結構を壊してしまいかねません。だから、ふつうなら第二部までにとどめておくのが無難なのに、作者はあえて現代まで書き切るという難業にチャレンジしています。そして、その成功の秘訣は、現代パートの主人公である「私」が祖母と母の時代の謎を振り返る、という構成の工夫にある。 それをたんなる回顧にするのではなく、「謎」を軸として、リアリズムの影が濃くなっていく現代パートの物語と融合させることで、過去の物語が、読み手のいる「今の時代、この場所」に着地するのです。つまりこの作品のミステリー的部分は、過去と現在を繋ぐ紐帯の役割を果たしてもいる。この作品に登場する「殺人者の謎」は、物語に要請されたものなのです。 物語の本質上、要請される「謎」。それを描くのが、まさにミステリーではありませんか。 この作品が推理作家協会賞を受けたのは、まことに理に適ったことだったと思います。 この物語は、若者文化の歴史を綴ったお話でもある。ある程度年輩の読者なら(私などがそうですが)作者の若者文化論に「そうそう、そうだった」とうなずいたり、「いや、そこはちょっと違うんじゃないの」と異論を挟んだり、各々の体験に応じて楽しむことができます。 そして大きな喪失の物語でもある。万葉の時代から毛毬の時代、現代の瞳子の時代へと、物語が進むにつれて、たくさんのものが失われてゆきます。これは再び帰らぬものへの愛惜の物語であり、祖母や母のように寄る辺となるものを持たず、したがって「語るべき物語を持たない」瞳子がアイデンティティを確かめようとする物語でもある。 あらかじめ失われてしまった世界の混沌に立ち尽くしながら、光のほうに向かって一歩を踏み出そうとする予感。これって、ひょっとして「女版・村上春樹」じゃありませんか? かくて、最後の最後でこの物語は、まさに旬の現代小説として幕を閉じるのです…こんなに小説を読む楽しみ、読みながらあれこれ考えさせてくれる小説は、そうそうありません。 …にしても、担当した編集者氏、にくい殺し文句を言ったもんだね。「初期の代表作を書きましょう」ですって。こんなセリフを吐かれたら、作家たるもの、魂をグッとつかまれてしまいますよ。私にもそういう殺し文句、誰か言ってください。 …って、もしかして「早く遺作を書きましょう」かよ。 |
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