ミステリー作家戸松淳矩 あさっての日記

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help リーダーに追加 RSS 『下流志向』はミステリー並みにおもしろい

<<   作成日時 : 2007/06/05 05:50   >>

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少し前に読んだ、内田樹さんの『下流志向』の書評です。
 内田さんはフランス現代思想がご専門で、東大仏文科を出られ、現在は神戸女学院大学の教授をされています。社会論、文化論など著作はたくさん。1950年生まれですから、団塊世代とシラケ世代のちょうど狭間(はざま)の年代ですね。

 この本のテーマは「学びからの逃走・労働からの逃走」で、日本の子どもたちが勉強しなくなったことと、ニートなど働くことを拒否する若者が増えてきたこと、その理由を共通の背景から解き明かそうというものです。どうですか、魅力的な問題提起でしょ?
 社会問題を扱う本は、こういうふうに「ほほう、そんな問題の立て方があるのか」と思わせるのが大切です。人間は自分で解ける問題しか思いつかないものだ、と言われます。そもそも答がまったくわからないことは問題として意識すらできない。反対にはっきり答のわかっていることは問題にはならない。だから、あと肝心なのは問題の立て方だけだというわけ。

 しかし、この本は問題の提出の仕方がおもしろいだけじゃない。解答がまた、ユニークです。あちこちで耳にしたような、ありきたりの解き方でなく、実に意外な答えを提示してくれます。少なくとも私自身は、これと似たような考えをほかで聞いた記憶はありません。講演をもとに文章化したものなので、語り口も比較的平易で、すらすら読めます。

 内田教授の解答のエッセンスは、ズバリ、「今の子どもはまず消費者として世の中を知る」ということ。
…だから、何なの?それがどうだっていうの?と思った、あなた。あなたは、わずかここ数十年で、人間の生活が根本から変化したことを理解していませんね。これは本当は大変なことなんです。なぜなら、人間はまず労働を通して世の中を知るのが、それまでの常識だったからです。そういえば、私なんかの世代だと、子どもの頃、家庭で必ず「お手伝い」というものをやらされていた。ちょっとした買い物に走らされたり、庭掃除や部屋の片づけ、犬の散歩、小鳥の世話、お風呂掃除、ときには廊下の拭き掃除をさせられた覚えもあります。少なくとも、何かひとつくらいは毎日やらされていたし、それが当たり前だと思っていました。
 サザエさんのカツオ君やワカメちゃんもお手伝いをしますよね。あれは原作の書かれた時代がそうだったからで、ドラえもんののび太だって、よく草むしりをさせられています。ところがちびまる子になると、あまりお手伝いはしない。まあ、まる子が怠け者だということもあるだろうけれど、まる子の時代は昭和50年ごろでしたっけ。あの辺から、時代が変わってきたんでしょうか。子どもの家事労働というものが激減した。

 そして、子どもはいきなり「消費者」として現実世界に対するようになった。このことは人間の現実認識を、過去の時代とは劇的に変えることになったのです。なぜか?
 ここはこの本の肝となる部分なので、具体的に書けませんが(ミステリーで言えば、謎解きに当たる部分ですから)、かんたんに言うと、時間認識が変わったということです。時間というものの捉え方が変わると、世界の見え方が違ってしまう。その結果が、上にあげたような現象である、というわけです。

 これはおもしろい視点です。この人はなんでこんなことを思いついたのかな、と思ってしばらく考えましたが、内田さんはフランスの思想家レヴィナスの専門家なんですね。レヴィナスはユダヤ人で、笠井潔さんの『哲学者の密室』にも彼をモデルにした人物が登場します。で、内田さんの研究方法は変わっていて、まず反ユダヤ主義の本を徹底的に読み込んで、そこから西欧に於けるユダヤ問題を追究しようとしたんだそうです。
 ユダヤ人は、農業などの自然労働には従事せず(というか、従事できず)、金融に進出したわけでしょう。『ベニスの商人』の金貸しシャイロックもユダヤ人なら、ヨーロッパ金融界の大立て者にもユダヤ系がたくさんいる。つまり貨幣経済に深くかかわってきた人々なんですね。たぶん、そのあたりが、この本の着想のヒントになったのではあるまいか。…と、これは、まったくの私の勝手な憶測ですけれど。

 それじゃどうしたらいいのか。あまりに問題が大きすぎて、手の着けようもありませんが、内田さんはご自身の経験から、ひとつの解答を提出しています。率直に言って、それは二次的な問題の解決であって、直接の解決にはならないのでは…とも思いましたが、コトは文明的な大問題ですから、一冊の本の中で答を求めるのがそもそも無理な話ですね。

 ひとつ言えるのは、世の中に思想研究者はたくさんいるけれど、思想家は少ない。内田さんは数少ない思想家のひとりだということです。偉大な思想家の思想を紹介するだけでなく、その研究から得た思考方法を使って、現実と格闘し、自分の見方を提示してみせる。それが思想を生きているものにすることだと思います。
 これから内田さんがどんなことを考えて、どんな問題を提起してくれるのか、とても楽しみですね。なんだか、新しくお気に入りのミステリー作家を発見したみたいな気分。…ほんとは、そんな傍観者的な態度でいてはいけないんですが。なにしろ、内田さんの書かれるものはフィクションでなくて、リアルな世界の話なんですから。

 

 

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