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ミステリーをあまり読まないと言われる私ですが、それは業界人と比べれば、という話。年にかるく300冊は読むなんていう達人にはとても及びませんが、まあ100冊近くは読んでいると思います。ただし、その7割は翻訳物。国内作品は正直言って、月に2冊か3冊しか読んでません。それも新刊本となると、めったに読まない。たいていは年末ベストテンなどが出てから、半年遅れ、一年遅れで読む。そんな私でも、この人の本なら、ほぼ新刊で読むという作家が何人かいまして、そのひとりが桐野夏生さんです。 桐野さんは江戸川乱歩賞デビューですが、その受賞作『顔に降りかかる雨』からして、すでに一般のミステリーの枠を越えていました。ミステリーとしての構成は手堅いもので、ストーリーもおもしろく仕組まれていましたが、なんといっても人物造形が際立っていた。これだけ人間が描けるなら、ストーリーがどんなに陳腐でも小説になるな、と一読して感嘆したものです。結末がわかってしまったらミステリーは再読に耐えない、などとよく言われますが、桐野さんにはまったく当てはまりませんね。じじつ『顔に降りかかる雨』も『天使に見捨てられた夜』も再読しましたが、初読のときと変わらずおもしろく読みました。 その桐野さんの作風は『ダーク』でも、自ら産み出したミロ・シリーズの枠組みを大きく踏み出して、ミロファンを愕然とさせました。私が『ダーク』だけは新刊で読まずにいたのも、評判を聞いて、実はひそかにビビっていたからです。ミロのイメージが一変するよ、という言葉に、すぐに読むのがためらわれたんですね。そして読んでみて思ったのは、自分の過去を破壊し、振り捨てて「暴走」していくミロの生き方は、そのまま小説家としての桐野さんの在り方に通じている…ということ。 並みの作家なら、ファンの付いているシリーズはいっそう大事に抱え込みたくなるものでしょう。けれど桐野さんは、ご自分の書きたいものを書き切るためには、その世界をも平然と壊してしまう。つねに背水の陣を敷くというか、安全な道をあえて選ばないというか、創作家としての激しい気迫が桐野作品には充ち満ちています。作家たるもの、こうありたい。こうでなくては本物の小説家にはなれない。…とは思いつつ、それができるのも天与の才能に恵まれてこそなんだよなあ、と出るのはため息ばかり…。 さて、そうした作家的エネルギーこそが『グロテスク』を産み、『残虐記』を産んだわけですが、その桐野さんの新作が朝日新聞に連載されていた『メタボラ』です。 物語は、記憶喪失になった若者が沖縄の密林のなかを、何者かから逃げてくるところから始まります。この若者ギンジ(仮の名前)はどうやら同性愛者らしい自分に気づき、助けてくれた宮古島から来た美形の若者・昭光とともに、見知らぬ土地でいろいろな体験をしつつ過ごしてゆく。 …とご紹介すると、たぶん「今さら記憶喪失ものかよー。読み飽きてるよ」とか「またホモの話かよー。なんで女の作家ってホモ話が好きなんだ?」とか「沖縄ものって、どうせ悲惨な戦争と基地の話だろー」とか、訳知り顔で「ああ、あれね」的な反応する人もいるだろうと思います。 だが、ちょっと待ってもらいたい。『グロテスク』は東電OL事件を下敷きにしていますが、誰でも知っている事件をフレームワークに使いながら、誰も読んだことのない物語を紡ぎ出したのが桐野さんだ。 今回の作品でも、小説によく登場する要素をあえて使いながら、これまで誰も書かなかった物語を創り出すことに成功しています。 それはなぜかというと、記憶喪失、同性愛者、沖縄という物語の太い柱が、ストーリーの都合で選び出されたものではないからです。お話を仕立てる必要から、これとこれとこれを組み合わせてみよう、という「作る技術」で選ばれたものなら、そこに小説家の「作る手つき」がどうしても透けて見えてしまう。それだと、小説家が作る主体であるようでいて、じつは物語に作家が支配されてしまいます。こういう作品は、たとえ「うまいもんだな」と思わせても、読者の心に踏み込んでくるものがない。 桐野さんの作品が「おもしろい」のは、作りのうまさだけではなく、あくまで作者が主体であり、物語を支配しているからでしょう。「これを書きたい」という激しい欲求がまず存在し、それを表現するためになくてはならぬものとして、物語の要素が選択されている。だから、記憶喪失の不安が非常なリアリティを持って迫るし、自分が同性愛者ではないかという心の揺らぎが生き生きと伝わってくる。沖縄の自然や人や空気が、いま自分がそこにいるかのように感じ取れるのもそのためです。 桐野さんの小説には、自分を取り巻く世界との違和感を深く抱えて、いまある自分を乗り越えよう、いまある世界を突き抜けようという、暗い情熱に駆られている主人公がよく登場します。それは小説家桐野夏生自身の情熱でもあって、デビュー作からほの見えていた、この作家の本質が、近作になるとますますハッキリしつつある。ミロの物語がなぜ『ダーク』に至らなければならなかったのか、その秘密はここにある、と私は思います。 不条理と自我の物語、と言ってもいいのですが、そこに描かれるのは不条理に悩み、立ちすくむ人間ではない。頼るべき過去を失い、進むべき未来も見えず、わずかな希望を圧倒してしまいそうな絶望に押し包まれながら、なおもそこを突き破ろう、先の見えぬ「どこか」へ一歩を踏み出そう、とする人間の姿です。これは私たち、現代に生きる人間の姿でもある。 桐野作品が読者の心に響くのは、「現代の人間」がしっかり捉えられているからにほかなりません。 そうしてみると、この作品における「記憶喪失」の苦悩とは何か、「同性愛者」の不安とは何か、「沖縄」とは何かが見えてきます。主人公に根ざす記憶喪失と同性愛者の不安は、桐野ワールドの描き続ける不条理であり、また日本の一部でありつつ、本土とは異化された場所としての沖縄は、その舞台である必然性を持っている。 どの要素も作家の内側から掴み出されたものだから、そこに「作り物」の追随を許さぬリアリティが生まれるのです。 もちろん、そんなことを考える必要はないので、読者は桐野さんの描写をただただ堪能すればよい。冒頭のジャングルのシーンの迫力、昭光という宮古青年の楽しくも哀しい存在感、沖縄のいまを切り取ってみせる手際の見事さ、やがてよみがえってきた記憶に潜む絶望。ワーキングプア、集団自殺、ホストクラブ、世界を放浪し続ける青年たち…と、時代相としての現代もしっかり描かれています。 あえてひとつだけ注文をつけるとすれば、記憶を取り戻していく進行形パートと、過去パートの構成がややバランスがわるいような気もします。これは新聞連載だったために、テクニック的な構成が取りにくかったせいでしょう。新聞読者は細切れでお話を読むわけですから、あまり凝った構成をされると、ついて行きにくい。通読してみると構成の工夫の余地があったかも知れない、と感じるのはそのためだと思われます。 しかし、そんなことは実際に読んでみれば、どうでもよくなる。圧倒的な筆力にねじ伏せられ、600ページ近い物語を一気に読まされてしまう、この快楽!すぐれた小説の前では、なにはともあれ、無心に読書の歓びに浸ればいいのです。 そしてページを閉じたあと、あなたはきっとこう呟きたくなるはず。そうです、愛すべき昭光くんのあの口癖、「ズミ、ズミ、上等!」。 |
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