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たいていのミステリー作家、のみならず熱烈なミステリーファンなら覚えているんじゃないのかな? この世にミステリーというものがある、と初めて知ったときのこと。 私の場合は小学校五年の春、図書委員になった日のことでした。じつをいうと、学校の図書室というところがきらいで、ほとんど本を借りたことがなかった。というのも、両親がとても堅い人間だったので、買ってもらえる本というと科学ものか歴史もの、それとも伝記といった、お勉強に準じたものばかりだったんですね。私の世代だと、親や先生はマンガは良くないものと決めつけていましたから、マンガもほとんど読んでいなかった。 ところが学校の図書室というところにあるのも、だいたいこの手の「お勉強本」が多い。物語もあるけれど、先生が勧める本はたいてい有名な児童文学とか、名だたる名作を子ども向けにリライトしたやつとか、どうも説教くさい。 だから図書委員になんかなりたくなかったのだけれど、じゃんけんに負けて、飼育委員のポストを取り損なったんだから、仕方がない。ちなみに飼育委員はウサギ小屋と水槽の管理をします。生き物を飼うのは大好きだったので、地団駄踏みながら、一日おきに図書室に通うことになった。そのとき司書の先生から管理を任されたのが、物語コーナーの一部でした。 物語の棚は壁ぎわから何列か並んでいましたが、行くたびに眺めていると、端っこの方にほかの物語本とは雰囲気の違う、変な本が何十冊かあるのに気がつきました。どこが変かというと、まず口絵の画風からしておかしい。ほかの物語本だと、だいたい子どもが花園に立っていたりとか、赤毛の女の子がブランコに揺られていたりとか、日常的なシーンが多いのに、この一角の本の口絵は妙に怖ろしげです。 なかでも、たまたま手に取った一冊は、ショッキングでした。お金持ちらしい外人のおじさんが恐怖に眼を見ひらいて駆けている後ろから、真っ黒な巨犬が追いかけている。しかも、その犬は全身から緑の炎を燃え立たせ、眼からも緑の光を放っている。…なんなんだ、これは、と私は呆然としましたね。 ミステリー好きならすぐおわかりでしょうが、これはごぞんじ、シャーロック・ホームズものの傑作長編『バスカヴィルの犬』の一シーンです。今になって考え合わせると、たぶん偕成社から出ていた推理SF全集ではなかったかと思います。 まあそれはともかく、私はどえらい衝撃を受けた。まじめでお堅い、役に立ちそうな本ばかり揃っている学校の図書室に、こんな怪しげな本があっていいのだろうか。健康に良いおかずだけが並んだ食卓の片隅に、さも体にも歯にも悪そうな、けれどなんとも魅力的な、毒々しい駄菓子が置かれている。世の中には「正しい大人」から見て「良くない物語」というものも存在するのだ、と知った、これがその初体験でした。 さっそくその本を借り出して帰った私は、めずらしく明るいうちから机に向かいました。読み始めて、すぐに我を忘れたのでしょう。夕飯に呼ばれるまで、時間が経つのをまったく意識していなかった。私はあまり集中力のある子どもではなかったので、母親はよほど不思議に思ったのだと思います。読んでいた本の表紙を確かめると、こういう本は夏休みにでも読みなさい、とやや困惑した調子で言いました。母親は若い頃教師をしていて、トルストイを愛読する人だったから、こんなものに耽るようになっては困る、と思ったのでしょうね。 ところが体に悪いものはたいがい美味いように、親や先生が顔をしかめるような本は面白い。一日で『バスカヴィルの犬』を読破した私は、翌日からその棚にある本を片っ端から読み始めました。ホームズ短編集のほぼすべてと、ルパンもののいくつか、『黄色い部屋の謎』などはこのときに読んだ記憶があります。 どれほど『バスカヴィルの犬』が衝撃的だったかは、ひと月ほどして行った、遠足のバスのなかで、そのストーリーをすっかり友達に話して聞かせたことからもわかります。というのも、読んだ翌日から、周りの友達という友達にはもう話し尽くしていたからです。そこで初めて口を利いたその子をつかまえて、きっと喜々としてしゃべったんだろうなあ。その子には、迷惑な話だったのでしょうね。 でも、今でも、図書室のうす暗い隅っこで、魔犬に追われるチャールズ卿の口絵を憑かれたように見つめている十歳の自分を、愛おしく思い出すことがあります。もしタイムマシーンがあるなら、その日の図書室に飛んで行って、こう言ってやりたい。 「それが、きみの運命を決める一冊になるんだよ。心して読みなさい」 けれど、さっきから、どうも変な年寄りのささやき声が聞こえるんだよなぁ。 「おまえ、懐旧談なんかしてる場合か。十年早いわ。とっとと原稿を書かんかい。おかげでワシは…ごほっごほっ」 …未来からやって来た、老残の私の声でしょうか。 |
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毎日、更新を楽しみにしています。本当に勉強になります。 |
藤岡真 2007/03/25 18:48 |
御同業の方に読んで戴けるのは、ありがたくもありますが恐縮致します。小説の原稿と違って推敲もしておりませんので、不様なところもあろうかと思いますが…。お気づきの点がありましたら、よろしくご指導下さい。まだご挨拶もしていないようですが、いずれかの折にお目にかかれれば、うれしく思います。 |
戸松淳矩 2007/03/27 12:40 |
ご丁寧なご返事いたみいります。 |
藤岡真 2007/03/27 17:07 |
ちょっと覗かせて戴きましたが、よくマメに撮影されていますね。茶目っ気のある週刊文春あたりが企画しそうなアイデアで、面白く拝見しました。 |
戸松淳矩 2007/03/28 22:31 |
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